イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月11日(金):我が一首

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若い頃一時期「短歌」を作っていたことがあった。ノートいっぱいに書き留めていたのだが、全部焼却した。若い日の記念に残しておいたら良かったのか、それでよかったのか、今となっては判別できない。どこかで、「暗夜行路」を書いた志賀直哉も、若い頃の原稿を焼いたという話を読んだ。自分の場合とは、比較できることではないが、そういうこともあるのだということを思わせられた。いずれににしても、たいした歌を作っていたわけではあるまい・・・・・・

ところが、一首だけ、どこかのノートの片隅に残っていた。それが次に記す我が生涯の唯一の一首である。

「愛せよと 主のお言葉に 戸惑いて この人だけはと 思う日のあり」

クリスチャンとしての、多少の自覚が芽生えてきたころの作であろう。

汝の隣人を愛せよ。とのイエスのお言葉受けても、主よ、あの人だけは、どうしても赦すことが出来ないのです、そんな自分に煩悶する日が、時があるのです。・・・・歌の意味としてはそういうことだが、当初は、棘のように突き刺さっていたことでもあった。この歌の良し悪しはどうでもよいことであるにしても、そして、何十人という隣人の中の、一人二人へ向けられた「赦しがたい感情」は常に心に重くのしかかって来ていた。

ある先輩の牧師が、私の所へ立ち寄った時、こんな悩みを打ち明けた。

「何十年来、共に教会を立ち上げて来た昔からの信徒が、ある頃を境に

自分と距離を置くようになって、関係を修復しようと試みたが、頑として受付なかったと。押しても、引いてもどうにもならない状態になってしまったと。その原因も分からない・・・・」と語るのだった。・・・・・

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「人の持つ、人の心の奥底に巣食う、(業)というものだろう。私もまたあの人だけは、どうしても赦せない、そういうおもいに囚われる日々もあった。そのわずか一本の棘が、心の痛みとなって全身を傷つけるのである。『断っておくが、今現在の話ではない』20年以上前の自分のことである。今はもうその人たちは誰もいない。召された。御国にいるのかハデスにいるのか、私の預かり知らぬことである。人は、どんな人でも、プライドがある。そこを傷つけられるとなかなか立ち直れない。私もどこかで

そんな過ちを犯していないだろうか。特に私は、昔から「真面目な顔して

冗談を言う」と一部の人から言われている。冗談でも案外、人によっては

グサリと來ることがある。よくよく心得ねばならない。・・・・・

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私は、人に対し悪意をいだかない。ことを信条にしているが、それだけでは足りないことは分っているが、主に、許していただいている?・・・・

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今日美穂子さんが来てお祈りして行った。どうも勤めている介護施設の施設長がワンマンらしい。介護の職場はいくらでもある。不快な思いで仕事していたら、入所者も困るだろう。ヤメナヨと言っておいた。