イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月15日(火):柔和の人

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『柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから』マタイ5章5節

柔和な人というのは、少し見方をたがえると、どことなく頼りない一本筋の通っていない人、卑屈な人、人に追従する無気力な人間と思われる場合がある。しかしここでイエスが言われていることは、もとよりそうした人のことではない。我々が柔和さを保っていくには、かなりの難しさがある。柱時計の振り子は、右に左に振れる。「柔和さ」とは右にも左にも触れず『中庸』を保つことである。・・・・・・・

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ギリシャの哲学大学

ギリシャの哲学者アリストテレスによれば、「全ての徳は両極端の中庸にある」という。一方の極に過剰があり、他の極には欠乏がある。その中間に「中庸」という徳がある。例えば、一方では過激な者があり、一方では他方では無関心な人があり、その中間に寛容な人がいる。『徳』を持っている人は、この中庸の精神を備えた人である。ここで留意すべきことは

その「徳」とは、「怒るべき時には怒り、怒るべきでないときに怒らない人のことを指す。それが無ければ、最初に書いたように、単なるお追従者になってしまう」。それではいつ怒るべきか、いつならいけないのか、ということが問題になってくる。柔和な者は、自分に加えられた侮辱や損害に対して怒ってはならない。すなわち、クリスチャンは恨んではならない

ということである。しかし、他人が傷つけられた時には怒らなければならない場合がしばしばある。自分中心の怒りは罪であるが、自我を滅した怒りは、この世の、道徳の力である。・・・・・・・・

 

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謙遜さが無ければ、真の宗教はあり得ない。自分が弱く神が必要だと自覚したしたときにまことの宗教心が生まれてくる。人間が本当の意味で人間になるのは「自分が被造物であり、神が創造主であって、神なしには何事も出来ないを知る時である」。自分の無知と欠乏を知っている人はさいわいである。というこの柔和さこそ地を受け継ぐのだとイエスは言われる。

「怒りを遅くするものは、

勇士にまさり、

自分の心を治める者は城を

攻めとる者にまさる。」箴言16:32

『さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって

非常に謙遜であった』民数記12章3節

モーセは、幾万の民を率いて、優柔不断ではなく、骨なしの人物でもなかった。その怒りは常に抑制されていて、必要な時だけ怒ることの出来た人であった。・・・・

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そこでこのイエスのお言葉は、「怒るべき時に怒り、いかるべきでないときにには怒らない人。神の支配を受けているため、全ての本能、衝動、激情を抑制することの出来る人、その人こそ幸いである。人間の間にあって王であるからである」と。理解できる。

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