イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月16日(水):従順と服従

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イミタチオ・クリステイという本の9章に「従順と服従」という項目がある

それをじっくりと読んでみると、謙遜を学ぶ上で非常に奥深いものがある

Ⅰ・従順にとどまり、上長のもとに生活し、独り立ちせずにすむのは、大変ありがたい。人に従っているほうが、上に立って人を導くよりずっと安全である。愛のためというより、むしろ止むを得なぬため、従順にしている人が多い。それで、彼らは苦痛を感じ、かるがるしく不平をいう。だが、全身をもって神への愛のために服従するのでなければ、心の自由は得られないだろう。ここかしこと走りまわっても、上長の指導の下に謙遜に服従するのでなければ、安らぎはえられないでだろう。いろいろと場所を

あれこれ考えて変えてみたりして、多くの人は失敗したものである。

Ⅱ・いかにも、人はめいめい自分の考えで行動し、自分と同じ考えの人によけい引き付けられる。だが、もし神が私たちの間においでならば、平和を守るためには、時には自分の意見をすてることも必要だろう。何でもはっきり分別できるほどに、賢い者があるだろうか。それゆえ、あまり自分の意見に確信をおかず、むしろ好んで他人の意見に耳をかたむけるようにしなさい。あなたの意見がよいのに、しかもそれすら神のためにすてて、

他人の意見に従うならば、それによっていっそう大きな徳を得るであろう

Ⅲ・なぜならば、私のよく耳にするところでは、人の意見を聞いて受け入れる方が、それを与えるより安全である。それぞれの意見がよいということもありうえる。しかし、理性や事情がそうせよと命ずるのに、他人のいうことにおとなしく従おうとしないのは、傲慢や強情のしるしである。

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     ☆       ☆         ☆

久しぶりにこの書を読んでみた。いつも思うことだが、文章が平易であることで読みやすいことである。それでいて内容が深い。しかし、この本に批判的な人がないわけではないという。500年も前に、しかも修道者が書いたものであって、現代社会にでは、時代遅れだと主張する学者もいるという。しかし、よくよく読んでいくと、著者の綴る言葉の裏には「神に対する絶対的信頼がみえる」・・・・・・・

人はみな、自分の考える方法や意見が最善だと考える。自分の思いはそれとは少し違うようなことがあったとしても、そこで争わない方が賢明であり、謙遜だというのである。人がどんなに最善を求めていても、意見の対立は好ましくない。神が我々に第一に求める事は、服従である。人々がどのような最善をなし、為そうとしても、この世界において起こる事柄は

神にとっての「最善」でしかない。そこに、自分の力に頼む者と、神のご支配に委ねる謙遜な者との違いがある。、

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今日は、朝からリポビタンDを飲んで、作業服に着替え片づけをした。

ほこりだらけの廊下をモップがけ、不用品の整理、「小屋」の掃除と新しく椅子と台を据えた。犬のまるの丸洗いと除菌剤の吹き付け・・・・

半日でダウン・・・・あぁ、歳だね。まると慰めあっている。・・・・

9月の初めに、ぶどうの木という所から、本が届けられた。JTJ神学校関係のものかなと思ったがどうも違うようだ。LGBTの関係らしく、大抵こういう類の文書は即ごみ箱なのだが、数ページ読んでみたが、内容がくどくてしばらく棚ざらしになっている。「どうしたもんじゃろねぇ!」・・・

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