イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月30日(日):神に近き子ら

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「神に近き子ら」と題されたこの本は、私が買った本ではない。昭和45年に出版されていて、ちえこが買ったものらしい。布田達郎(ふただたつろう)という人が書いている。いわゆる、精薄児の養護施設の教師が折にふれて書いた詩が50編ばかり載っている。その内の一編だけ紹介しよう

 

・・・・ひとりの子・・・・

ここにもひとりの小さな子がいた

三日前に母親と死に別れた小さい子

 

『この子を、・・・・

お願い・・・・ね』と、

その言葉は重たく、なんとやさしく聞こえてことだろう。

言い残すことが いっぱいあったろうに

愛する子と十年、生活してきたこの偉大なドラマを

だれが知り得よう、

ある日、胸の病がこうじてぽっくりなくなった

その重大な事実を、

彼はただ何ごとかあった、と感じとったにすぎなかった。

 

あくる朝、着慣れあ服やズボンをそろえてくれる母親が、

いないことに気づいた彼は、

それでもなお、キョトンとしていた。

その彼の見まわりを世話してくれるようになったのは、

遠い九州の田舎から わざわざやってきた年老いたおばであった。

生前の母がよくしてくれたように

そのおばは、

朝になると歯みがきの用意から

排便のしかたまで

根気強く しつけていったが、

彼の答えは「あほ、あほ」

という言葉であった。

「わたしがこの子のおばでなかったら

この子にふりまわされて

もういっときもいたたまれなかったでしょうね」と

優しいおばは言う。

彼はテレビのつまみをはずして放ったり、

窓ガラスをマジックでぬりつぶしたり、

洋服のボタンの穴が気になって指を入れている中に

全部やぶいてしまったり

さんざんおばに迷惑をかけて、

彼は今日も いつものようにおばに手をひかれて、

緑の学園へとやってくる。

小さな身体に似合った 小さなカバンを下げて、

ふむふむとうつむいて、キョロキョロした眼で、

いなくなった母親の面影を 脳裏のどこかに宿して、

冷たいかかとで歩いてくる。

 

朝の遊びに夢中になってシッコをわすれ

立ちんぼうのままもらしてしまい、

『おかあしゃん!』と呼んでいる

 

昼の給食のミルクが飲めず

無理に飲まそうとすると、

『あかあしゃん!』と呼びかけ、

帽子が泥で汚れたといっては

屋根に放り上げて『おかあしゃん!』と呼んでいる。

 

その呼びかける声に、

母親の深い愛が流れ

十年余の喜怒哀楽の情があり

なんと尊厳な、やさしい響きが感じられることだろう。

いま彼にやさしい母親のいない生活は、

空虚で さびしいものに違いない

眼の見えていたものが 急に盲目になったような、

どうにもやり場のない世界

その上に、脳に障害のもつ精薄、

パーソナリティに未発達が見られ、

彼の衝動的行動には 確かに動機がない。

 

ただいたずらをして逃げ回って常に落ち着きがない、

それでいて憎めない彼ではあるが、

早くどうにかしなければなるまい。

手をこまねいている おばのためにも

今日も『おかあちゃん!』とよびつづける

ひとりの男の子がいるのだから。

    ☆        ☆         ☆

これは『詩』なのだから読む人によってそれぞれに感じ方があるだろう。

ある人は、この詩を読んで泣けて仕方がなかったと書いている・・・

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隣の町に行く途中に近道の細い道路の側にそうした施設がある。先生と数人の子供たちがよく歩いているのを見かける。いつもその道は車をゆっくり走らせる。我が町の温泉施設にこれも先生に連れられて子供たちがやって來る。出来るだけ入浴客の少ない午後の時間帯来ている。子供たちがはしゃいで私の体にも水やお湯がかかる。黙って笑っているしかない。何といっても「なんといっても神に近い子たち」なのだから・・・・・・

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今日は礼拝堂の講壇に、コロナ対策でちえこの要望通りガラスの枠を取り付けた。説教の声が通りにくいと言うので、一時間ばかりで仕上げた。

猫のアルが私専用の冷蔵庫の上でいつも寝ている。面白くないので、明日は冷蔵庫の上に三角屋根を取り付けて寝させない。無礼なのだ!