イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月7日(土):決勝点を目指して

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信仰とは、信じていることが真実であり、期待していることが必ずなると確信することである。希望とは単に憧れをもって待ち望むことではなく、確信をもって待機することである。希望とは、ある可能性に期待をかけるのではなく、ゆるがぬ確信に立つことである。昔、迫害の時代に、裁判官の前に引き出された名もない一信徒はこう言った。「私が神に対して真実であるならば、神は私に真実であられます。だから、私はどんなことがあっても信仰を捨てません」。裁判官が「お前ような者でも神の元へ行って、栄光が受けられると思っているのか」と尋ねると、この信徒は「私はただそう思っているのではありません。事実そうであることを知っています」と答えた。・・・・・・・・

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バンヤンは確信が持てずにもだえていた間は、「人は誰でも、自分の信仰が一番正しいと考えている。ユダヤ人もムーア人も異教徒もそう思っている。もし私の信仰、キリスト、聖書が、『ただそう思っている』程度であるとすれば・・・・」と疑っていた。しかし、真理を悟ったとき彼は叫んだ。「今こそ私は事実を知った。いま私は直接それを知っている」・・・

クリスチャンの希望は単なる望みではなく、確かさを知る事なのである。この希望は、我々のすべての行為、行動を支配する。生きるにも死ぬにも

この希望が我々を支える。シレシウスと言う人はこう歌った。

希望の杖に身を託し

忍耐の衣をまといつつ

わたしは旅を続ける。

この世の悲しみの中を

永遠を目指して進む。

モファットは、希望は三つの方向に働くと言う。

Ⅰ・・クリスチャンの希望は、この世よりむしろ神を信じる

Ⅱ・・クリスチャンの希望は感覚よりもむしろ霊を信じる

Ⅲ・・クリスチャンの希望は現在よりも未来を信じる。

人々は次のように問いかける「なぜ現在の快楽、利益、安全を捨てて不安定で問題をはらむ将来に期待するのか」と。これに対しクリスチャンは答える。「将来は不安定ではない。それは神のものだからである」。クリスチャンは神の約束が真実であることを信じ、その信仰に基づいて行動する

クリスチャンにとっては、神が命令し、約束しただけで十分なのである。

へブル人への手紙の著者は、彼にあるのは希望でなくして確かな事実であると言う。なぜなら、彼の希望は神に根ざしているからである。・・・・

(へブル人への手紙11章1節~)

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昔はクリスチャンを、西欧かぶれとみなす人もいた。実際そういう人も多くいた。教会に行くとみんな優しくしてくれて、外人宣教師とお話が出来

苦いコーヒーなんぞも飲ましてくれた。私はいまだにコーヒーなんぞうまいと思ったことはないが、その頃の名残でいまだに飲んでいる。多くのコーヒー飲みたちが教会を去って行った。50年前のコーヒー飲みたちを今数えると、片方の手指で足りる。長い道中だったが、このような者が今でも苦いコーヒーを飲んでいる。ここまで来たらもう後戻りはできない。それは全てを失うことになる。小学の頃は足の速い子だった。100メートル13秒フラット。田舎ではなかなかの記録であった。いつも運動会の100メートル競走はトップでテープを切った。人生のゴールはトップでなくてもよい。主イエスのふところは、深く広い・・・・

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