イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月10日(火):タリタ・クミ 少女よ起きなさい

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ここに一つの非常に美しい物語がある。「タリタ・クミ」この言葉の意味は「少女よ、さぁ、起きなさい」と言うアラム語である。福音書ギリシャ語で書かれていたが、この一語だけはアラム語で書かれている。どうしてそういうことが起こったのか、考えられる理由が一つある。この福音書の著者はマルコである。マルコはその知識をペテロから与えられていた。少なくともパレスチナの外側では、ほとんどの場合ギリシャ語を用いなければならなかった。しかし、その少女が死んで、生き返る場面にペテロもその場にいた。彼は選ばれた側近の一人であり、この出来事を目撃していた。彼はイエスの声を忘れられなかった。彼は心と記憶の中で、終生その

「タリタ・クミ」を聞くことが出来た。その愛とイエスの優しい声の響きが永遠に彼に脳裏に刻まれていたことであろう。それ故、ギリシャ語で書かれた福音書の中に、ただ一語「タリタ・クミ」というアラム語が残されているのであろう。・・・・・・・

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この物語の特徴は、喪に服するものの失望とイエスの希望との対比がある。人々は言った。「先生を煩わせないがよい。今となっては、誰にも何もできない」と。イエスは言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい」。同じ場面で語られるのは、失望の声であり、もう一つのものは希望である。無制限の苦悩と、イエスの冷静な落ち着き対比としてある。彼らは苦悩の発作で泣きわめき、涙を流し、髪の毛をかきむしり、衣を裂いていた。イエスは冷静に、落ち着いて、自制を保っておられた。・・・・

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どうしてこの相違があるのだろうか。相違はイエスの神に対する確信と信頼から来た。人間の最悪の災難には神と共に対処するときに、我々は勇気をもって立ち向かうことが出来る。人々は彼の希望には根拠がなく、また彼の冷静さは間違っていると考えたので冷笑した。しかし、クリスチャンの生活においての大きな事実は、人間にとっては全く不可能に見えることが神には可能であるということである。ただ人間的な根拠においてはあまりにもうますぎて真実でないことが、神がそこに臨在するとき喜ばしい真実になる。彼らはイエスを冷笑した。しかし、その笑いは、神に何ができるか認識したとき、あっけにとられた驚きに変わらなければならなかった

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我らの主イエス・キリストにある神の愛に直面し、征服されたとき、直面できないもの、征服し得ないものは・・・死すらも・・・存しない。

  ・・・・・(マルコの福音書5章40節~43節)・・・・・・

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今朝はちょっぴり雪が降った。初雪。上の画像を見ていたら、昔を思い出してしまった。二頭立てではなかったが、子供のころは町への行きかえりにはこうした馬車があった。この辺りは七の付く日に市が立ち、村人はそれぞれ買い出しにでかけ、馬車に乗って帰った。昔は今より雪が多かったように思う。これも温暖化のなせることか。・・・・・

政治向きのことはあまり書きたくないが、アメリカの新しい大統領が決まってよかった。最初からあの人は嫌いだった。富豪にしては、品性に欠け、言葉も乱暴で下品だった。政治家になるべきでなかった。「まぁ、今日はこんなところですか」。あるニュースキャスターの口真似・・・