イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月25日(水):正しい事の動機

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『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いを受けられません』

・・・・マタイの福音書6章1節・・・・

ユダヤ人には宗教生活の三大行為、善なる生活を支える三大支柱があった。それは、施しと祈りと断食である。このことについてイエスは、ひとときでも疑問を持たれたことはなかったが、イエスが問題と感じられたのは、人間の生活の中で一番立派なことが、しばしば間違った動機でなされる、ということであった。イエスは警告される。自分の栄光のために、これらの善行を行う者は、その価値の大半を失ってしまうのだ、と。・・・

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施しをする場合、相手を助けるのではなく、自分の寛大さを人々に示し、人々の称賛を集め、快感を味わおうとする人がいる。・・・・・・

神に話すのではなく、人に話しかけるような祈り方をする人がいる。

このような祈りは、自分が人一倍信心深い事を誰もが見落すことがないように、みせびらかすのである。

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断食をするときも、神の前にへりくだるのではなく、人の前に、自分の、すばらしく、規律ある生活を見せびらかそうとするのである。善行するときも、人から称賛され、自分の勢力を伸ばし、自分の善を示そうとする人がいるのである。・・・・・・

エスが言われるのはこうである。『もしあなたが、自分の寛大さを示すために施しをするならば、あなたは人の称賛を得る。しかしそれがあなたに支払われる金額である。もしあなたが、人前で自分の敬虔を見せびらかすならば、あなたは非常に信心深い人だという評判が立つかもしれないが、それがあなたに支払われる全額である。もしあなたが人に知れ渡るように断食をすれば、あなたは非常に自制心に富む禁欲的な人だと思われるかもしれないが、ただそれだけであり、それがあなたに支払われる全額である』イエスは言われる。『もしあなたのただ一つの目的が、この世の報酬を得ることであれば、確かに、その報酬を得ることはできる。しかし、それ以上に、神だけが与える報酬を期待してはならない』と。・・・・

一時的に報酬を得て永遠の報酬を失う人は、霊的に近視である。

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このモアイ像は何を見つめていたのか?

ユダヤのラビたちは言った。「施しを為す者は、すべての犠牲をささげる者にまさる。」施しは善行の中で第一のものであった。従って、正しくありたいと願う者は施しに意を用いたことは当然であった。ラビの最高の教えは、イエスの教えと全く同じである。すなわち、みせびらかしの施しを禁じて、「ひそかに施す者は、モーセより偉大である」と言った。死より救う施しとは、「受ける者が施した者を知らず、施す者は受ける人を知らない場合」である。このような施しは、隣人への愛と、神への絶対的信頼から生まれてくる。

現在の日本では、幸い社会保障制度が充実しており、これらの内容は今一つ実感の湧かない部分もあるかと思うが、しかし、数十年くらい前までは

国鉄の駅の周辺に実際、物乞いの人たちがいたものだった。要は、この現代でも、私たちの眼は何処を向き、私たちの心は、何を一番大切に思っているか、に尽きるのだろうが、ことはそう簡単ではないことは、皆知っている。

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