ある見すぼらしい服装の老紳士が、毎日12時になると教会にやってきては、ほんの数分会堂にいたかと思うとすぐ出て行ってしまう。管理人は、大切な備品がなくなりはしないかと心配して見守ったが、何も無くなりはしなかった。ある日、管理人はその老紳士に声をかけた。
「こんにちは、ところであなたは、毎日ここへ何をしにくるのですか?」「祈りに来ております」
「でも祈るにしてはちょっと短くありませんか。ほんの少しここにいるだけではありませんか」。
「私には十分なのです。毎日、私はここへ来てこう祈るのです『イエス様。ジムでございます』と言ってしばらくお話するのです。それからすぐ帰るんですよ」・・・・・・・・・
それからしばらくしてジムは交通事故に遇い、足を骨折して入院した。その病院はジムにとって実に居心地の良い所であったが、そこで働く看護婦たちにとっては、全く厄介な所だった。というのは、入院中の男たちは怒りっぽくて、哀れな人たちで、四六時中不平ばかり言っていたからである。ところがジムが入院してからというもの、不思議なことに男たちは実に楽しく愉快そうにしているのである。・・・・・・・
看護婦たちが病室に近づいていくと、入院患者の笑い声が聞こえてきたので、彼女は尋ねて見た。
「あなたたち。いったいどうしたの。最近ずいぶん嬉しそうね」。
「それは、ジムおじさんのお陰ですよ。足は傷むし、不自由なのに、いつも嬉しそうだし、決して文句を言わないからね」
看護婦がジムのベットのところへ行くと、ジムは天使のような微笑みを浮かべて横になっていた。
「ねぇ、ジム。この人たちはあなたのおかげで、この病院がこんなに変わったと言っているけど・・・・あなたはいつも幸せそうね」。
「えぇ、そうですとも、看護婦さん。私は幸せで仕方がないんです。それは私の訪問者のおかげです」。
「訪問者ですって?」。看護婦さんは驚いた。というのは今まで誰もジムを見舞に来た人はいなかったからである。面会の時間の時、ジムのベットの脇にある椅子はいつもあいているのだった。
「いつ、どなたがあなたを訪ねて來るの?」。
「毎日ね」ジムは目を輝かせながら答えた。
「毎日12時になるとその方はベッドの側に立ってくださるのです。そして、その方は私を見つめてこう仰るのです。『ジム、イエスだよ』ってね。
《信仰が生きた生活となって全うされ、アブラハムが、その信仰を義とみとめられて、神の友と呼ばれたように、イエスはこの老紳士の友となってくださったのである。
いい話を聞いた。今度からこれをしよう。
《イエス様、ヨシノリでございます》。どこでもできるな。