イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月12日(金):金融業

秋田支店の勤務は、初任者研修のようなもので一年で終了し、二年目からは隣町の本荘市の勤務となった。所長とベテラン社員、同輩と事務の女性、私を含めて5名の小さな所帯だった。給料は結構よかった。一応大学卒ということもあることと、年齢査定もあった。(4年遅れの卒業だったので)・・・・・・

仕事は貸金の回収と融資の相談、仕事はほぼ午前中に終わった。午後は喫茶店でコーヒーを飲んで暇をつぶしていた。夕方には帳尻を合わせるために、会社に戻った。そんな日々だった。コーヒーを飲む喫茶店はいつも決まっていた。おかしなことに、学生時代の仙台でもそうであったように、4年間そこに通った。その店もカウンターだけの店であった。違っていたのは、同じ棟の裏側が居酒屋で、喫茶店はママが仕切り、居酒屋はご主人のマスターが仕切っていた。・・・・・・・・

新潟の本社での「研修」では、社長が訓示したが「この仕事は、人を見れる」と語った。秋田支店では、支店長が口癖のように言っていた。「お金を借りに来る人は、私たちの顔が仏様に見えるが、いざ、返済ができなくなると、鬼に見られる」と、語っていたのが忘れられない。・・・・・・・・

この会社におよそ7年余勤めたが、「鬼たち」の周りで7人の人が首を括った。殺人まで犯した者もいる。私たちの会社のせいだけではない。およそ、彼らは「多重債務者」であり、あちこちから金を借りまくり、結局、首が回らなくなり、首を吊った。弁解はしないが、我が社は比較的「穏健」であった。・・・・・・・・

ベテラン社員が、夕方帰って来てこんな話を聞かせた。

市の中心部から遠い草深い、田舎の村で返済の滞っている人がいた。督促に出向いたが、本人は不在でおばぁちゃんが応対した。そこに、たまたま、中学生くらいの孫娘が帰って来た。何気なくその娘に目を向けると、おばぁちゃんは慌ててこう言ったという。「借りたお金は必ず返済するので、どうか、孫娘は連れて行かないでくれ」と、懇願されたというのである。「江戸時代でもあるまいし、明治の時代でもあるまいし、」と嘆いていた。・・・・・・・・・

所長に咲子という中学生の娘がいた。ある日、父兄参観の授業の時、後ろに並んでいた母親たちの一人が、その娘を指さしてこう呟いたといはらうう「ほら、ほら、あの子が金貸しの娘よ!」・・・・・・・

「本社研修」で社長は、人を見よと教えたがもう一つの訓示をした。『無一文の人はいない、不足なお金をどこへ回すか、誰に返済するか?。・・・・他のものへの払いは後にしても、「お前にだけには払う」そのように思われる社員になれ。』とも訓示した。

先代の社長は、日向の国、宮崎県から裸一貫で出て来て、資本金10億円の金融会社をつくりあげた、いわば立志伝中の者であったという。

そこでの7年間はどのように評価したらよいのかいまだに分からない。召された後に考えることにしよう。