イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月28日(水):パウロの手紙

新約聖書の中でパウロの手紙以上に興味ある文書はない。それはすべての手紙という文書の様式が、ほとんど個人的なものであるためである。昔のギリシャの文学批評家デメトリウスが述べているように、「各人は自分の手紙の中で自己の魂を表現する。その文書の様式において筆者の性格を識別することができる。しかし、書簡の様式ほどに明白にそれを表すものはない」。われわれがパウロをよく知っていると感ずるのは、非常に多くの手紙が残っているためである。これらの手紙において彼は、心から愛した人たちに自分の心思いを開いて語っている。そしてその中に今日も、初代教会の問題ととりくんできた偉大な精神を見ることができる。そして彼らが誤って導かれ、間違った考えを持っている時でさえも、躍動する彼の偉大な心を感ずることができる。・・・・・

手紙の問題の問題点・・・しかも同時に、しばしば手紙ほど理解するのに困難なものはない、という事も真実である。デメトリウスは、アリストテレスの手紙を編集したアルテモンの言説を引用している。アルテモンは、手紙は対話を同じ様式で書かれるべきであると言い、手紙を対話の両面の一つとみなした。それをさらに現代的に言いかえるならば、手紙を読むことは、電話の片方の会話に耳を傾けているようなものである。そこで、パウロの手紙を読むとき、われわれはしばしば困難に陥る。われわれは彼が返答している相手の手紙を持たないし、彼が取り扱っている事態を十分に知らない。その手紙を書かしめた事態を推論できるのは、ただその手紙からだけである。いつもこれらの読む際に、両面の問題に直面する。一つは手紙を理解するという問題であり、はかはわれわれが手紙の書かれた目的と動機の事情を理解しないなら、手紙それ自体を十分に理解し得ないという先決問題が存在することである。われわれは読まれる手紙の事情の背景を、たえず再構成しようとつとめねばならない。

(ロマ書:パウロの手紙への一般的序説)W。バークレー

ヨーコちゃんから借りているルカとロマ書。出来るだけ早く読んで返さねばならない。そんなことで、ここしばらく、ロマ書を読んでいく。