イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月26日(水):申命記 モーセの生涯と見果てぬ夢

モーセの生涯を想う時、モーセに限らずアブラハムに始まりパウロに至るまで、その生涯は苦難の「歴史」であった。私達は、少なくとも自分は、かの聖徒たちのように生きたいかと問われれば、イエス様には申し訳ないが「平(ひら)にご容赦を」と言わざるを得ない。そう言えばモーセも「私は口下手で・・・」とお言葉を固辞した事があった。また、「もう、沢山です、もう私はこの民を導くことはできない、私を殺してください」と、申し上げたこともあった。波乱万丈の生涯を、物語として読むには面白いが、わが身に降りかかってくるとなると話は別である。スタコラサッサと逃げるが勝ちである。丁度ヨナのように、タルシシへでも行って「難」を逃れる方が良いと考えるのrである。・・・・・

しかし、私たちの間に、堅く信じられていることがある「神の召しと賜物は変わらない」・・・多分、それは変えられないということなのかも知れない。・・・・申命記34章は、締めくくりである。モーセの苦難の歴史は終わった。見方によっては、その昔、120年前葦の茂みに沈んでしまった方が彼にとっては幸せであったのではないか。と思われる生涯であった。そして、今、また「乳と蜜の流れる地」を眼の前にして「お前はここで死ね」と言われる。【ありて、あるもの】に襟首を掴まれ振り回されたような生涯であった。・・・・・森 有正だったと思うが、アブラハムの生涯について書いている「彼の人生は現世的に見て、幸せだったのかと。・・・・そうではあるまい、そうではあるまい、と書いている。・・・・我々は、「見果てぬ夢」十字架の贖いの向こうにある、その祝福に目を留めないならば、すべてのことは空しい、モーセアブラハムもイサクもヤコブもこの「一事」は知っていた。