イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

3月18日(月):絶筆

『風で寝床に臥せりながら、上原和著「斑鳩(いかるが)の白い道のうえに」と言う本を読んだ。』と言う書きだしで始まる「天声人語」の文章が深代氏の絶筆となった。この本は聖徳太子の悲劇を描いた本である。その一族は皆殺しにされるという悲惨な運命をたどるが、その太子ゆかりの「法隆寺」をもう一度訪ねてみたいと、この筆者は「天声人語」を締めくくっている。風邪で臥せっていると言いながら、この人は何故か自分の病気のただならぬことを薄々気づいていたのではないかと、思わせられる。・・・・また、この人は、大佛次郎の絶筆についても、天声人語に書いている。当時朝日新聞に連載されていた天皇の世紀と言う大作、まさに、大佛次郎がライフワークとして渾身のおもいをもって書き続けていたものである。著者がどこかでインタビューを受けていた。「先生、この連載はいつまで続くんですか?」との問いに、「僕もわからないんだよ」と答えておいでだったようである。この途方もない連載が、休載になる前に書かれていた場面は、明治維新北越戦争、官軍を迎え撃つ、河合継之助の最期の場面である「火を斌(さかん)にせよ」と呟いた河井の死を締めくくったのが、司馬遼太郎であるが、大仏氏はもう少し、悠然としていた。関係者は、大仏先生が、継之助の最期を書けるのか、その前に先生の命が尽きるのか、固唾をのんで見守っていた。連載、1555回目、休載とフエルトペンで、書き記し、筆を置いた。先生はその二週間後に静かに息を引き取ったという。・・・

負け戦は初めから分かっていた、河合継之助、越後人の最期の抵抗を、サムライを描いていせた。大仏先生は、継之助同様に従容としておられたのであろう。大仏次郎(おさらぎじろう)。深代惇郎(ふかしろじゅんろう)、司馬遼太郎三者三様に私にとっては師であったように思う。・・・・

深代惇郎略歴』。昭和4年生まれ、28年三月、東大法学部卒、同年朝日新聞入社、横浜支局員、東京本社社会部員、」リンド院、ニューヨーク各特派員、東京本社社会部次長、などを経て、43年論説委員、46年ヨーロッパ支局長、48年論説委員、同年2月から50年11月1日、入院するまで「天声人語」を執筆した。50年12月17日、旧制骨髄性白血病のため死去。