イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

11月10日(水):今日と言う一日

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05:00・・まず夫婦喧嘩から始まった。原因は朝の祈りの時間の勘違い。私は4時半からと思い、その時間から、祈りの家へ行って祈り始めた。ちえ子が起きて来ない。寝過ごしたのだろうと思っていたら、5時になってやってきた。どうした?と聞くと逆にどうした、と聞かれた。あれこれもめているいるうち、どうやら私の方が、30分勘違いしてしまったらしい。それでも、いつも通りの、お祈りができた。

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06:00・・朝の食事。いつもどおり、自分の食事は自分で作る。ひどく億劫なので、フランスパンをちぎって、牛乳で終わり。

07:00・・今日の予定の打ち合わせ。ちえ子はハガキ三枚書く。柿をいただい礼状、金田長老への挨拶状、等。私は、犬のルカとお遊び。

10:00・・外出。用向きは、種々の支払いと、買い物。真っ先に出かけるのはいつものように果物屋、ちえ子はリンゴ農家の出なので、年中家にはリンゴを欠かしたことがない。お目当ては「紅あかり」10年ほど前に出た新種のリンゴで甘みが強いとの評判の品種。それを、竹内先生他何件かに送っていた。私はそう言うことにはタッチしない。お礼の電話が来ても、知らないので頓珍漢な受け答え。

11:00・・新聞社へ講演会の広告代金の支払い。銀行で、サプリメントの購入代金の振り込み。サントリーのものを毎朝飲んでいる。意外に効いているようだ。一度面倒で止めたら、からだの調子が悪く感じられて、再度服用するようになった。

12:00・・ちえ子が焼肉、焼肉、と騒ぎ出した。残念ながら、いつもの焼く肉屋さんは、街の反対側15分もかかるので、近くに「吉野屋」があったので入った。ボクは500円のランチ、ちえ子は830円の特別メニュー。どこか合点がいかない。

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13:00・・午後からは、車の冬タイヤの下見。オートバックスなら安かろうと、行って見たら、やはり安かった。この前、いつもの農協のスタンドで見積もりをとったが、12万円から14万円とのことであったが、何とオートバックスは5万八千円。ほぼ半値以下である。「善は急げ」即契約。3時半には取り付けができるというので、いったん自宅へ帰り、2時間ほど休息をして、再び出かける。

16:00・・冬用タイヤの交換が終わる。万歳。新しいタイヤに替えたら、我が愛車、マークXはすこぶる走りが軽くなって、なんか飛ぶような感じ!!!。

16:30・・このまま、帰るはずがないと思っていたら、やはり、ちえ子が、カーネルおじさんの看板を見つけた。ケンタッキーフライドチキン。およそ、若者たちの好むみせなのだが、昔からの馴染みの店だ。臆面もなく老夫婦二人、テーブルに陣取った。何年ぶりかなこの店。前の時より、値段も安く、チキンが5ピース。一つ多い、前は4ピースだった。一人前注文して、一ピース余ったので、犬のルカへのお土産。カーネルおじさん気前がよくて、値段が安くなって、量が増えた。今どき珍しいお店だ。かくして今日の一日はこともなく終えようとしている。感謝。

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11月9日(火):柿

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日曜の夕方、福原さんから電話があった。「柿を持って来たけど市民病院にいるので、取りに来てほしいと。」どういうことか事情が呑み込めないまま、市民病院に駆けつけると、閑散とした病院の玄関のベンチに腰をおろしていた。驚いたことに、自宅から12キロ余り、一輪車に袋に詰めた柿を30キロくらい、運んできたが、途中でギブアップしたらしい。・・・・

最初から電話をくれれば自宅まで貰いに行くのだが、何とかして自分で届けようとしたのだろう。半分の道のりをそうして一輪車を押してきたのだろうが、とうとう、力尽きて、市民病院へ寄りそこから電話をかけたようである。『何時に家を出た?』と聞くと『11時』と言う。6時間一輪車を押してひたすら歩き続けたようである。絶句せざるを得ない。・・・・

たわけた話と言えばそれまでだが、何としても私の所へ、自分で届けたかったのだろう。それを笑うことはできない。かれには元々、そういうところがある。・・・・・・・

柿は毎年届けてくれる。こちらの地方の柿は渋柿で、そのままでは食べられない。皮をむき、湯通しし、天日に干してから2週間くらいでようやく食べられるようになる。この2日間、ちえ子がその作業に追われた。・・

柿は一個、一個枝から切り取ったものである。そうでないと、柿を吊るすことができない。こちらも大変だが、彼も大変だったろう。・・・・・

昨日は岐阜キングスガーデンの理事長からこれまた、柿が届いた、こちらの柿は甘がきで、そのまま皮をむけば食べられる。感謝して頂こう。渋柿は12月になってからだが、何とも言えない甘さがある。軒先につるした柿の「カーテン」は毎年の我家の風物詩。頃合いを見てカラスがやって來る。不思議なもので、渋いうちはカラスも知らん振り。しかし、甘みが出てくるころにはカラスと、知恵比べをしなければ全部食べられてしまう。

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11月7日(日):道 真理 いのち 

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エスは言われた『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』(ヨハネ福音書14章6節)

このイエスのお言葉ほど、イエスの本質を表している言葉はないように思う。どこかでも書いたように、道ならば、世にあるいろいろな宗教は、それぞれに道、すなわち人間の生き方を語る。真理ならば、ソクラテスをはじめとする哲学者が語る。しかし、「いのち」に関しては誰も語ったことがない。誰もいのちをどうすることも出来ないからだ。立派な人生を歩んでも、誰も自分のいのちをながらえることはできない。どんなに真理を極めても、いのちをながらえることはできない。・・・・・・・

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『わたしがいのちです』とは、途方もない言葉である。人間の発し得る言葉ではない。確かにそれを持ち、与えうるものでなければ語り得ない言葉である。そこに、私たちはイエスというお方のすごさを覚える。・・・

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今朝の礼拝のご奉仕は、渡先生がして下さった。写真は先回のものだが、相変わらず、猫のアルと遊んでくれた。奥さまもご一緒。

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先生のメッセージはいつも励まされる。感謝。クリスマス礼拝もお願いしてある。

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11月6日(土):イエスに出会った人たち (3)

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ザアカイは取税人のかしらで金持ちだったと記されています。人々は彼のことを「罪人」と呼んでいました。かなりあくどいことをして金をためたのでしょう。そんなことですからザアカイに友人と呼べるような人は誰もいませんでした。だれ一人彼の家を訪ねてくれる人はなかったのです。

ところがイエス様は、このザアカイに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。何もかも知っておられたイエス様はザアカイの家に泊まろうと仰ったのです。それも「泊まることにしてある」と言われたのです。・・・・

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「ザアカイ、お前が心をいれかえて、生まれ変わったなら、そうしたらお前の家に泊まってあげよるよ」と言われたのではないのです。「お前がどうあろうと私はお前を愛し、お前を受け入れているいるから、私はお前の所に泊まることに心を決めているんだよ」と言われたのです。・・・・

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エス様は、私たちが絶望の中にいるとき、その苦しみを御覧になって近づいて下さり、私たちの中にとどまってくださって、共に生きて下さり、共に苦しみ、共に喜んでくださったイエス様のことを考えたいのです。・

クリスマスと言うのはただ一日だけ、あるいは十字架までの30年余りだけ、イエス様はおられたのではないのです。あるいは私たちの生活の中でいうなら、信仰を持ったあの日、洗礼を受けたあの日、あるいは喜びに満ちて感謝をささげることができたあの時だけでないのです。苦しみの日に、喜びの日に、勝利の時も、あるいは罪を犯して打ちのめされたいる場合でも、主を信じる私たちの心の中にとどまり続けておられるのです。そのためにイエス様は来られたのです。人の子は失われた人を捜して救うために、そしてその人のところに留まるために来られたのです。

(羽鳥純二著:イエスと出会った人)より。

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11月5日(金):イエスに出会った人たち (2)

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アンデレはとっても不思議な人物でした。聖書の中に目覚ましい働きをしたということが記されていません。使徒の中の使徒ペテロの弟でありながら、しかも、ペテロを導いた人物でありながら、いつでも、他の弟子たちの陰に隠れている人でした。ヨハネヤコブの兄弟が、兄ペテロと一緒にいつでも特別扱いされても、彼は不平も言わなければねたみもしませんでした。・・・・・・

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ところが大切な場面、特に人が助けを必要としている場合には不思議に顔を出します。あの五千人の飢えかかっている人々に食事を与えるという奇跡を主が行われたときもそうでした。イエス様の所に少年の持っていた五つのパンと二匹の魚を携えて行ったのはアンデレでした。またイエス様が十字架にかかられた前、何とかしてイエス様にお会いして教えを受けたいと考えていたギリシャ人がいました。彼らがピリポのもと頼みに来た時、ピリポがまず相談したのは、アンデレでした。アンデレは少年でもピリポのような人でも、何か相談があるとまず第一に声をかけたくなるような人物だったようです。気さくな、明るい人、アンデレのイメージはそう言うふうです。アンデレのようにでしゃばらないつつましい人物がどうしてそんなに人に親しまれるのでしょうか。・・・・・・・・

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私はその秘密がここに記されているように思います。アンデレとヨハネはイエス様と一日一夜を共に過ごしました。このイエス様との出会いと交わりがアンデレの一生を全く変えてしまいました。よく言われることですが、人生は出会いで決まります。人から教えられた知識はただその人の頭の中に留まるだけです。人から受けた戒めは良心の中に刻まれるかもしれません。しかし、人格と人格との触れ合いは、人と人との出会いはその人の一生を、その人の生きざまを、その人の一日、一日を変えていくのです。・・・・・・・・

例えば結婚がそうです。私の姉は結婚してしばらくして義兄とそっくりの字を書くようなったので驚きました。また、私と私に家内とは全く性格が反対なのですが、同じ問題について同じ考え方をしていることが多いのに気づきます。・・・・・・・

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エス様との交わりは更に根本的に人を変えるのです。この二十四時間のイエス様との出会いはアンデレを変えました。アンデレの心の中に、静かに、しかも絶えることのない喜びの泉が湧き上がったのです。それは人に隠しておくことの出来ない喜びでした。ですから、アンデレはまず兄のペテロに話さずにいられなかったのです。

水野源三さんは、身体障碍者の方です。しかし、瞬きによって詩を書きました。ハンセン氏病ので目が見えなくなった、吉成さんと言う人は「見える」と言う本を出しました。この人たちもイエス様に出会って、その喜びを自分一人の中にしまっておけなかったのです

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ヨハネから聞いて、イエスについて行った二人のうち一人は、シモン・

ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンをみつけて

「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。』

ヨハネ1章40;41)

羽鳥純二師(イエスの出会った人々)より、

11月4日(木):イエスと出会った人たち (1)

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・・・・・羊飼いと博士たち・・・・・

『人生は出会いで決まる。』誰が言った言葉かは知りませんが、よく聞く言葉です。きっとこれが真実なので、よく引用されるのではないでしょうか。わたし自身(羽鳥純二)のことを考えてみても、二人のすばらしい先生との出会いによって生涯が決まったと言ってもいいと思います。一人は、旧制高校の校長先生です。この先生は私に、人間の貴さと責任をもって生きることの大切さを教えてくださいました。もう一人は聖書学校の校長先生です。この先生は私に、イエス・キリストというお方を紹介して下さり、このお方に従って生きることのすばらしさを教えてくださったのです。そしてこのイエス様との出会いが私の生涯をそれこそ180度変えたと言っても決して言い過ぎではないのです。・・・・・・

聖書の中の福音書は、いわば、イエス・キリストの伝記ですが、見方によれば、いろいろの人とイエス様との出会いの記事を集めたものとも言えると思います。ですから福音書は、決して堅苦しい教えを述べたものではものではないのです。確かに長い説教も書き記されています。しかし、その説教も、ただの理窟とか、教理と言うものではなく、ある人々がある時イエス様にお会いして、その時、その人々に語られたことが書き留められているのです。ですから哲学や宗教学の論文でも抽象的な人生論でもなく、現実的な問題に対するイエス様の答えなのです。現実に生きている人間とイエス様との間の真剣な対話なのです。・・・・・・・

聖書はそういう生きた言葉の集まりなのです。そこにはイエス様と人間との生き生きとした心と魂の交流があるのです。私はこれから、この聖書、特に福音書の中から、色々な人とイエス様との出合いについてお話したいと思います・・ すぐにお分かりになると思いますが、これは2000年前のある特別な人たちが経験したという出会いだと言うだけでなく、わたしたちと同じように、喜び、苦しみ、寂しさ、願いを持っている人々が、イエス様という生きた人格と出会って色々経験した、その経験でもあるのです。また私たちの経験となり得ることなのです・・・・・

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さて、思わず前置きが長くなりましたが、まずは最初にイエス様に出会った人たちを考えましょう。聖書を開いてみると生まれたばかりのイエス様に第一にお会いしたのは、マリヤとヨセフを除くと、その地方で羊の番をしていた羊飼いだったことが分かります。そして、次に出てくるのが東の国の博士たちです。この二つのグループはなんと違っていたことでしょう。一方は無学な羊飼いでした。もう一方はイエス様に素晴らしい贈り物ができるほどの金持ちの大学者でした。またその反面、羊飼いはたちは神から選ばれたユダヤ人で子供の頃から来るべき神様の救いについて聞かされていました。しかし、学者は異邦人であり、聖書のことは殆ど何も知らなかったでしょう。一方は青年で、一方は老人だったかもしれません。でもともかく、二つのグループが、イエス様のところにやってきたのです。

私たちは皆違っています。学歴、地位、性別、年齢、あるいは国籍も違うかもしれません。しかし、ただ一つ共通なことがあるのです。それは、誰でもイエス様にお会いしなければならないということです。誰でもイエス様と出会うなら、祝福され、人生が変わるのです。私はあなたにも、このイエス様とお会いしていただきたいと心から願うものです。

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(羽鳥純二先生。イエスと出会った人。より)

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今日は、書棚で羽鳥純二先生の本を見つけたので、それを書かせていただいた。羽鳥明先生のご実弟で、元共産党員、東大卒、という異色の牧師であった。羽鳥明先生の書かれたものは度々、拝借したが、純二先生の書かれたものを取りあげるのは初めてである。一度、随分昔に、前の教会においでくださった。そのお話も忘れられないが、教会からお二人をお送りしたことが忘れられない思い出になっている。優しい方たちだった。

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11月3日(水):死刑制度について

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先日図書館から借りてきた本「死刑」(読売新聞社社会部)をざっと眺めてみた。死刑に関する本は別に一冊持っている。これは古来からの死刑の方法と、種類、変遷について書かれてあるが、余り読みたくもなかった本であるが、どうも、「歌人島秋人の、遺愛集」を読んで以来、「死刑」制度について考えるようになった。しかし、いろいろな事柄について、私の考え方は、余りぶれることはないのだが、この制度の是非についてはいつも考え方がぶれてしまう。昼と夜、朝と夕、考えがころころと変わってしまう。極悪犯罪をマスコミに載ると、「そんな非道な人間は死刑にせよ」と考え、刑務所で改悛の情を示している者をみると、今度は助けてやれ、と思ってしまう。とにかく、この制度については、これまで、一定のゆるがぬ見解を持ったことがない。・・・・・・・

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聖徳太子がその憲法18条の初めに、「和を以て尊しと為す」と定め、その200年後、日本の国から「死刑」を廃止した。1200年も前のことであり、驚くべきことに確か、347年間、日本に死刑と言いうものがなかった。武家の時代になり、荒くれどもが、死刑を復活させたが、それが連綿と続いて今日に至っている。アメリカでも近年、死刑を廃止する州もあり、フランスもあのおぞましい、ギロチンを止めた。他はわからないが、死刑廃止は世界的流れなのかも知れない。・・・・・・・・

加害者の家族の手記、被害者の家族の手記、死刑囚の手記、を読むと、気持ちがぐらぐらと揺れ動く。聖徳太子の理想はいつ実現されるのだろう。

『官は自らの行いによって、民を徳化すべし』

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