イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

6月18日(木):文字盤のない時計

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大学は仙台だった。当時に比べ人口は倍以上に増え、大都市になったが当時はこじんまりした「都会」であった。それでも東京に近いせいか、文化面では秋田はくらぶべくもなかった。

よくいろんな人の講演会があった。特に小説家などは、新刊書を出版すると、本屋さんに、首輪をかけられ、各都市を引きずりまわされ、「講演」をさせられた。もちろん自分の書いた本の宣伝のためでもある。いつも文化会館みたいなホールで、入場無料なので聞きにいった。・・・・・・

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そんな中で記憶に残っているのは、作家ではなかったけれど、確か、ダイヤモンド。とかいう総合雑誌を出版していた、社長さんの「講話」は忘れられない。彼は「文字盤のない時計」の話をした。エライ人の腕につける時計には、文字盤が刻印されていなくても用が足りるんだそうである。周りの人の動きが、時計代わりになるからである。反対にあまりエラクない人の時計にも文字盤はなくてもいいのだという。彼はひどく自由なので時間を気にする必要がなく、これまた文字盤が必要ないのだという。この話は面白かった。わたしはどうもミーハーの傾向が強いので、秋田へ帰って来てから、その事を思い出し、文字盤のない時計を探し回った。秋田、能代、大館、時計店をくまなく探しまわった。そして、ついに見つけた。青森県弘前市のデパートにあった。一万六千円也。当時も時計としてはそれほど高価なものではない。それを今に至るまで使っている。

わがままで、時間に縛られるのが嫌いな自分に、よく合った時計だと、ひとりほくそ笑んでいる。あ、そうだ一つだけ印がついている。12時のところに、メーカーのロゴが刻印されているのである。それで、事足りる、昼飯にありつけるという寸法である。そのほかの時刻は、朝は明るくなるし、夕暮れは暗くなる。最近後期高齢者になって、この時計は重宝になり、ゆっくりした気持ちにさせてくれる。

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