イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

7月25日(土):心のきよいひと

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・・・心のきよい者は幸です。その人たちは神を見るから・・・

       (マタイの福音書5章8節)

《詳訳聖書》心のきよい者は祝福されている(幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている「すなわち、外側の状態にかかわりなく神の愛顧の経験から生じ、特に神の恵みの啓示によってあたえられている幸福を得ている」)なぜなら、その人たちは神を見るからである・・・・・・・・

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詳訳聖書を読んでみたが、何だかかえって、ややこしい訳だなと思ってしまった。マタイが記しているように、すっきり、「心のきよいものは・・・・」と読んだ方が、気分がいい。

時々、「神は目には見えませんが・・・・」と祈る人がいる。

私も時々うっかり私たちは皆罪人で・・・と祈る時がある。どちらも「余計なお世話」なのである。私が罪人であるのは明白であるとしても、隣の人まで巻き込むことはない。同様に、私の目に

神が見えないからといって、誰の目にも神が見えないわけではない。そのあたりのことを、私たちは無意識に通り過ぎてしまって

いるような気がする。ところが、イエス様は、はっきりこう語っておられる「心のきよい者は幸いである。その人は神を見る」と

私たちはこのお言葉を、どのように薄めても、曲げてもいけないのだろうとおもう。聖書の中にも、神とお出会いした人たちが大勢いる。キリスト教の歴史の中にも、神を「見た」聖徒たちが大勢いる。それは、本当のことだとおもう。もともと、キリスト教は、「復活の主を見た」というところから出発しているのだから。日本人のキリスト教への入信は、センチメンタルな要因が少なくない。欧米諸国のように、良きにつけ、悪しきにつけ、キリスト教文化が社会の土壌となっていない日本においては、仕方のない事なのかもしれない。そうであっても、神はそのセンチメンタルな「信者」に御目を留められることがある。・・・

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森永製菓の創業者、森永太一郎はそうした人たちの一人であったろう。彼は若い頃に洗礼を受けていたが、事業を起こし成功すると、堕落し始めた。しかし、長年連れ添った妻の死をきっかけに

彼の回心の時が来た。昭和五年十二月末と記録している。祈りの中で「立って行け」との黙示を受けて、二度目の回心を経験した。以後森永製菓の社長を辞し、北陸、山陰、沖縄に至るまで、

「われ罪人のかしらなり」と各教会をまわり証して歩いた。

時には、39度の熱に冒されながら、老齢を顧みず、奉仕はつづけた。昭和12年1月24日、72歳で主に召された。

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