イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

8月19日(水):書籍

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高校を出てすぐ横浜の戸塚区にある製紙会社に就職した。段ボールを造る工場で働いた。青森のリンゴもまだ木箱に詰められていた時代だったが、会社では、これからはみんな段ボールが使われるようになると言っていた。実際今はあらゆるもの段ボール箱に梱包されるようになった。成長企業だったので、株の配当もあって、あのまま務めておれば良かったのかな、と思うこともある。・・・・・・

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日曜日は、駅近くに日基の教会があって、そこに通った。午後は

大抵、横浜に出て、伊勢崎線に乗って、横浜港の山下公園(?)

でぼんやりと船を見て過ごした。日の暮れるころ、伊勢佐木町をぶらぶら歩き、必ず、書店(善隣堂、有隣堂?)に立ち寄った。

帰りはいつも、本を小脇に抱えて帰った。大した給料ではなかったが、ほとんどを本に使った。父は大酒飲みだったが、私は下戸だった。それで、きれいなおねーちゃんのいるところへは行かないで済んだ。本を買い、本を読むのはいいけれど、田舎の高卒レベルでは読み切れない本がたくさんあった。それが大学進学のきっかけになった。会社を退職し、帰郷し、進学の方法を探った。

幸い、兄が現役の自衛官で、仙台の自衛隊に入隊すれば、夜学に通わせてもらえると教えてくれた。実家には私を進学させる余裕はなかったし、まさに「渡りに船」というところであった・

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そんなわけで、陸上航空隊の、二等兵三浦某が誕生した。その頃、政令防衛庁から出ていた「夜間大学に通学する学生の便宜をはかれ」と。

役所のお墨付きはすごいものである。夕方4時には勤務を終え通学出来た。夜9時には消灯ラッパが鳴るが、学生には11時まで

学習室が与えられた。恵まれた環境ではあったが、その分、朝6時の起床から就寝まで、息詰まる日々でもあった。・・・・・

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普通なら私の学力では、私立と言えども入学は覚束なかった。何故合格できたかと言えば、その年以来、大学側が入学枠を大幅に増やしたからである。それで、奇跡的に入学できたのである。

昭和42年の春だった。その年、同年代のものが、卒業し、4年遅れで私が入学した。「なぁに、4年長生きすれば帳尻が合う」

この間、少しは人様より本を読んだかもしれない、友人が訪ねて来て、私の本棚を覘いて、「何だこりゃ、雑学文庫だな」と言った。その通り、手あたり次第読んでいたので、何の統一性もない本棚だった。その本は今はほとんど残っていない。・・・・・

そろそろ眠くなってきたので、この続きは明日にしよう。ブログで書くことなんかは、長々と書いても、読む人がご迷惑なだけだろう、800字くらいで押さえているのだが、今日はここまで、1071文字、お休み・・・・

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追記:こうして昔のことを辿ってみると、何故か見えない糸に引きずられていたような感覚がする、教会へは通っていたが、洗礼はまだ受けていなかったし、当てにならない信仰だったが、訓練の時代だったのかなと感じる。・・・・・