将棋の藤井という子が、師匠を越えた。相撲の世界でも、兄弟子を負かした力士が「恩返し」をした、と言われる。このような表現は日本独特な風土と文化に根差したものなのかは、よく知らないが、なかなか味わいのある事のように思える・・・・・
今朝、ふっと思いたった。これまで何十年も読み続けてきた、榎本保朗師の「一日一章」を、ここらへんで卒業しようかな・・・
そんな思いに駆られた。卒業と言っても、兄弟子を倒した力士のように、榎本師を越えたとか、打ち負かしたという種類のことではない。依然として榎本師の書物は、私にとって「仰げば尊し」という存在であることは今も変わりはないが、ただ、ここにだけ留まってはいられないような気がしてきたのである。
それこそ、今朝、感じたばかりなので、これからどういう風に、聖書と向き合っていったらよいのか、成算があるわけではない。聖書通読を27回した。65回通読したという人知っているが、残念ながら、あまり、そんなことをしたいとは思わない、そもそも、怠け者で、一度も聖書を通読したことがない。それでも、折々に読んで、50年余、多分ほとんど読んでいると思う。ただし、黙示文書はあまり読まない、わけが分からないし、解説書を読んでも著者によってみな解釈が違う、そんな言い訳で、かなり不埒な「聖書拝読者」であることは事実のようである。・・・・・・
『どうしたもんじゃろねぇー』と考えあぐねているが、今一つ浮かんでいる「案」は、福音書の中の、イエス様の「お言葉」のみをすべて選び出して、そこから「イエス像」を想い描いていったら面白いかもね?。と考えている。難儀な作業であるが、どうせ
暇な老牧師である。たいしたこともあるまい。それに、英文聖書であるが、イエスのお言葉のみ赤い文字で印刷されいる聖書を持っている。英文はともかく、お言葉を拾い出すには、章節が記されているので、これは重宝に違いない。しかし、『どうしたもんじゃろねぇ』。ここが思案のしどころなのだが、あらかた心は決まっている。・・・・・・
実は、榎本師自身が、「一日一章」に安んじているように思えなかった。どこかで、プロテスタントの修道施設を目指していたような節がある。師はアシュラムによってみ言葉を頂きながら、世に出て行くことを熱心に薦めておられたことは事実であるが、それとは別に、アシュラム(退避)にとどまることも考えておられたような気がする。その想いの内は誰にも今となってはわからない。いずれにせよ、52歳の若さであったことが惜しまれる。
明日は、3か月に一度の通院日なので、早めに切り上げろとちえ子に言われているので、このへんにする。何処と言って不都合なところはないのだが、母親ゆずりの喘息は治りそうもない。