イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

9月18日(金):いやしの言の葉

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・・・集める人生・散らす人生・・・(柏木哲夫師)より。

『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべてのよい良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与える

ことのできる方です。「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」』。よく患者さんやその家族から「振り返ってみると幸せな人生でした」という言葉を聞くことがあります。でも実際は山あり谷ありで、非常に大変な時期もあったらしいのです。幸せな人生である

か不幸せな人生であるかは、一概に決めることはできません。それは幸せ

不幸せは非常に主観的な感情だからです。・・・・・・

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また人生には、他人から見て幸せと感じる「客観的幸せと、その反対の客観的不幸せ」があるのではないかと思います。しかも、人生というものは、そのどちらか一方、完全に真っ白、完全に真っ黒というものでもありません。割合はそれぞれ違うけれど、黒と白が織り混ざっているのが人生ではないかと思います。・・・・

今日の聖書の傍線箇所ですが、前の翻訳では、「この人は散らして、貧しい人々に与えた」と訳されていました。確かに人生にはまた、幸、不幸だけでなく、「集める人生と、散らす人生」があるように思います。多くの方々と接していて、そう感じるようになりました。・・・・・

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「集める人生」というのは少し悪い言葉で言えば「自分のために生きる人生」です。たとえばお金を集める為に生きている。知恵を集める為、経験を集める為に生きているなど、まわりからさまざまなものを集めながら送る人生です。多かれ少なかれ皆そういうものを持っていると思いますが、

「散らす人生」を生きている方もおられます。自分が持っている技術や才能、持ち味を一生懸命他人のために散らしながら(分け与えながら)生きている方です。・・・・・・

「受容能力」について研究している精神学者や心理学者がいます。「受容能力」というのは、ことが起こったとき、たとえば不治の病だとわかったときなど、その不都合さのなかにも人間として生きている証を見ることのできる力のことですが、多くの研究によると、どうも「散らす人生」をおくってきた方のほうが、「集める人生」を送ってきた方よりよりも受容能力が高い、不都合ななかでも人間として生きていくことが出来るようなのです。・・・・・・

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私たちは完全に散らす人生を送ることはできません。それは人間の限界なのです。この世に存在した人のなかで唯一、百パーセント完全に「散らす人生」を送られたのが、今日の聖書で「彼」「この人」と言われているイエス・キリストではないかと思います。この聖書の言葉は、自分のためでなく人々のために生きたイエスの「散らす人生」を非常に印象的に描いています。・・・・・・・

註:クリスチャン新聞福音版より編集・

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今日は一日雨模様、午前中買い物に出かけた。ちえ子のお菓子や果物がなくなると、買い物に行きたがる。新婚当時、冷蔵庫が空になったら買い物に行くと、叱ったことがあったが、その後もこの性分は改まる様子はない。自分で車を運転できないせいもあるだろうが、とにかく物がいっぱいなければダメなようだ。ほらほら、今日の柏木先生のお話ではないが「集める人」方なのである。私など貧乏育ちだから、パン切れと、飲み物さえあればいいのだが・・・・・

うちみのさんら、先生の説教CDと手作りマスクが届いた。晴美さんから頂いたマスクは信徒さんがみんな持って行ってしまったと言ったら、丁度作っているのがあるので送ります、ということで、今日、届いた。今度こそ誰にも持って行かせないと、決めている。柄模様の、百合子のマスクよりよさそうだ。有難う!。先生の説教の感想後で送るネ。

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