『あなたは、祈るときにはっ自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。マタイの福音書6章6節』
イエスはいのりについて、二つの重要な規則を示された。
Ⅰ・真実な祈りは神にささげられなければならない。イエスが非難された人たちの本質的な欠陥は、彼らが神に祈るのではなく、人に祈ったことであった。ある有名な説教者が、ボストン教会でささげられた修飾の多い美文の祈りを評して「ボストンの会衆にささげられたもっとも雄弁な祈り」
と言った。その牧師は、神と交わるより人に聞かせることに心を使ったのである。人の前でいのるときも、一人で祈るときも、神を思い、神を求める以外の心を持ってはならない。・・・・・・・
Ⅱ・私たちが祈る神は愛の神であり、我々の願いにまさって祈りの応えようとしておられる、とイエスは言われる。神のたまものや恵みは、神に強要するものではない。神は、ねだったり無理押ししなければ祈りにこたえられない方ではない。我々が祈る神は、与えることを唯一つの願いとしておられる方である。このことを覚えているならば、神に祈る時に、心の願いを僅かででもあらわし、口で、「みこころをなしたまえ」というだけでよいのである。・・・・・・・・
ムラサキスポーツの会長、金田師は自宅の階段の下の半畳くらいの納戸の中で祈ると聞いたことがある。お金持ちの方である。もっと立派な部屋があるだろうが、そこが先生にとって、一番の密室なのだろう。私は金田先生よりずっと貧しいが、祈りの部屋と言うより、独立した一坪半ばかりの
専用の建物を建てている。そこで毎朝祈っていることは既に、書いた。
この一時間ばかりの時を、はじめの頃は、北海道から名古屋に至るまで、兄弟姉妹、友人、知人の名をあげ、祈っていた。そうした祈りに、どこか違和感を覚えるようになって来た。「私は、神様にゴリ押しの祈りをしているのではないか・・・と」「神様にひたすら、必要もない物乞い」をしているだけの祈りではして来たのではないだろうか。・・・・・・・
上記の祈りに関する2項目はバークレーの解説である。このことは自分の祈り方にも、思い当たるふしがある。それで、最近は祈りの部屋にはいっても、ぼんやりしていることが多い、ぼんやりではいけないが、ぼんやり主の為してくださったことを、想っている。主が何か語ってくれるのではないかと、ある程度期待もしているが、結局。「我らを試みに合わせず悪からお救い下さい」で祈りを閉じる。
今日は晴美さんが来てくれた、美穂子さんも夜勤明けにもかかわらず、女性たち三人、お祈りと交わりをして帰った。私はユダヤのレビたちのように、女性の交わりには入らず、せっせと車庫造りをしたが、こうした作業は、「てご」が必要なのだが、一人でやっているが、やはり時間がかかる
まぁ、まだ雪もふるまい。のんびり、楽しく・・・それに健康にもよい。