イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

10月22日(木):求める群衆

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湖の向こう岸に渡られると、再びイエスは群衆に取り囲まれた。誰もかれもイエスから何かを得ようとして、人々は押し寄せてきた。彼らは得るために来た。彼らはしつこい要求をもってやって来た。ぶっきらぼうにいうなら、彼らはイエスを利用するために来た。得るためではなく、与えるために来たものはいなかった。私たちが何かを得ようとして、イエスのところへ行くのは自然なことである。ただ、すべてを取って何も与えないと言うことは恥ずかしいことである。にもかかわらず、それが我々の特徴である。

Ⅰ:・・自分の家庭を利用するだけの者。

これは特に若い人に多いが、彼らは家庭を、自分の楽しみと便利さに「応ずる」ところだとみなしている。何かを尽くさねばならないが、そこからいつでも何かを取り出すだけであってはならない。

Ⅱ:・・友だちを利用するだけの者。

何かを求めるとき以外は、便りを決して寄せない人々がいる。自分が必要なときだけに助けてもらうために他の人々がいるのだと考え、自分が利用できないときは他の人を忘れてしまう人々がいる。

Ⅲ:・・教会をただ利用するだけの者。

彼らは、教会は子供たちにバプテスマを授け、若者たちを結婚させ、葬式をすることを望んでいる。そういうときだけ教会にくる。教会は彼らに仕えるために在るのであって、教会に対して義務を負っていないとする

無意識の態度である。

Ⅳ:・・神をただ利用しようと求める者。

彼らは神が必要になるまでは決して神を思い出さない。彼らの唯一の祈りは要請であり、神に対する命令ででさえある。誰かがこれを次のように言った。・・・アメリカのホテルには「ベル・ホップ」(給仕)と言われる少年がいる。ホテルのお客がベルを鳴らすと、そのベル・ホップたちが姿を現す。彼らはお客の要求を何事でも承る。世の中には神を、何事か必要な時にだけ召し出される一種の、万人のベル・ホップとみなしている人々がいる。・・・・・・・・

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私たちがもし、自分のあり方を調べて見るならば、ある程度まで、これららのことに気がとがめるだろう。もし、もっとしばしば、私たちの愛と奉仕と礼拝をささげるためにイエスのところへ行き、必要とする助けを求めることを少なくするなら、イエスの心情を喜ばせることになるであろう。・・・・・(マルコの福音書6章53~56節。バークレーの解説

参照)

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     ☆      ☆        ☆

いつか礼拝でメッセージをしたことがある。私たちの祈りは、しばしば無意識であっても、神に「請求書」を突き付けるような祈りをすると。誰もが心のどこかに、そうした経験を持っているはずだと思う。機関銃の弾丸を発射すように、箇条書きを読み上げるように、言葉の弾丸を神に向けて発射する。多分、そのような祈りは、祈ったという(物理的)満足感はあるだろうが、魂のうちに平安が得られるだろうか。少なくとも、わたしの心には平安は訪れない。『主よ、何か御用がおありですか』そんな思いで祈りたい。沈黙の時が流れてもそれでよい。どこかで、祈る前から私の思いを知っておられる主の、お応えが隠されている。やがて主は、それを気付かせてくれるだろう。御心にかなった祈りをすれば、御心がなる。心のやましさがあれば、やましさが返ってくる。どのように祈ったか主は、既にご存じなのだから・・・・・

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