イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

12月15日(火):はいは、はい。いいえは、いいえです

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『あなたがたは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。』(マタイ福音書5:37)

クエーカー教徒は昔も今も、決して誓約をしない。ジョージ・フォックスは、せいぜい、まことにという言葉を使うだけであった。彼はこう記している。「私はどんな場合にも、男にも女にも、誰にも不正を行ったことはない。私が現職にあったとき、取引の際に「まことに」という言葉を使った。

『もしジョージ・フォックスが、まことにと言ったら間違いない』と皆が言うようになっていた」と。昔、エッセネ派はどんな場合にも誓わなかったが、クエーカー教徒は今日までそれと同じ立場をとっている。・・・・

このみ言葉の後半の部分を見てみよう。人はただ、然り、か否かを言うべきであって、「それ以上に出ることは悪から来る」のであると言われている。このことについては、二つのことが考えられる。確かに、私たちの社会は誓約をとる必要性がある。それは人間の中に悪があるからである。もし人間の中に悪がないならば、誓約は不要である。しかし、事実は我々は、誓約不履行者にはペナルテイを課さなければならない、という現実に直面する。・・・・・・

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エスが、語るところは、そうしたこの世の「誓約」の中にすでに悪の芽が潜んでいるのだと、語っているように思われる。ある場合に誓約をさせる必要があるのは、この世の不信が原因である。・・・・・・

エスの言われるのはこうである。真実に正しい人は誓う必要がない。彼の言葉の真実と約束の確実性は、そのような保証を必要としないのである。しかし、ときとして誓約が必要であるという事実は、人間が善でなく、この世が善でないことを示している。

そこでイエスの言葉は、我々に二つの義務を課する。第一は、透き通るような善が認められて、人から誓約を要求されないような者になる義務である。もう一つは、誓約の必要がないほどに、虚偽と不信のない世を作り出していくという義務である。

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      ☆       ☆       ☆

このところ何年か、キリスト者と言われる人達の、言葉の軽さということが、随分気になるようになった。誰がどうした、こうしたという具体的なことはなかなか言えないが、何故か知らず、彼らの言うことが、どこか真実とか誠実さに不足を覚えることがある。それは、個々のキリスト者という訳ではなく、キリスト教会(教界)全体に沁み込んできているように、この老人には思えてならない。遠い昔に、エジプト古代文字を解読したら、「今どきの若者は・・・」と書かれていたということがあったが、私も、粘土板にそんなことを記さねばならない、年齢と場所に立たされてしまったようだ。この数千年の間、言い古されてきた事柄も、ただの笑い事ではなくなってきているように思われる。「事」はこれまで以上に、深刻であり、単なる年代の相違で済まされることでは、なくなってきている。今は、あらゆる意味で、人の価値観が大きく変わりつつある時代であると思われる。善に、真理に、飢え渇く若者が、キリスト者が本当に少なくなってきている。この世の人々とキリスト者の間にどんな違いがあるのか・

昔のキリスト者の言葉は、その通り、受け止めることが出来たが、最近は、それが本当か、ちょっと様子を見てみよう、などとこちらも「ふらち」な思いがするのは、何とも情けない話である。

はい、という言葉は、どこまでいってもはいであるし。

いいえ、という言葉は、どこまでいってもいいえである。

その然り、と否を貫くのは、神への信頼が基(もとい)となっていれば幸いである。

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今日も吹雪、合間をぬって、チカちゃんに水生ペンを届けてきた。ぬりえもリハビリに効果があるようだ、川村先生もやっているらしい。私は小学校以来やったことはないが、いつも色がはみ出していた。

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チカちゃんどうだった?・・変わらない、塗り絵が楽しくなれば、変わるかも・・そうね、何か打ちこめるものがあればネ・・