イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

1月16日(土):ペテロに伝えなさい Ⅲ

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アンドレイ・ジイドと言う作家が、その著作の中で書いていることがある「自分は、50年聖書を読んできているが、それでも今でも、聖書の中に新しい発見をすることがある」と。・・・・・

文豪と言われる小説家でも、聖書の語るところを、「あぁ、そういう意味だったのか」と気づかされるというのである。まことに

聖書の奥深さを言い表した言葉だと思う。私も、「ペテロに伝えなさい」Ⅰ・Ⅱを(バークレの書いたもの)を紹介したが。ハテ?と考え込んでしまったことがある。バークレーも指摘している事ではあるが、このところから、イエスというお方の、実に心の優しさが浮かび上がって来た。ペテロはイエスを裏切った男である。仲間の意地悪い人々は、ペテロが通ると、わざと鶏の鳴きまねをして、からかったという。あんなに勇ましかったのにいざとなると、一目散に逃げ出したペテロは、仲間うちでも笑いものであった。十字架でイエスが死なれ、誰も彼も意気消沈していたが、ペテロの落ち込みかたは、尋常でなかったであろうことは察せられる。ペチャンコになっていたであろう。・・・・・

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エスはそれを知っておられた。我々は、復活の朝の出来事として、最初にマグダラのマリアにお姿をあらわされたのを知っている。私はここで、イエスの言葉を見落とした。イエスはマリアに

最初に現れたけれども、それは、ご自身が甦ったことをペテロとお弟子に伝えなさいと、伝言するためであった。私は視点をずらして理解していた。イエスはマリアに会ったが、イエスの目的はまずこの事をペテロに伝えることだった。マグダラのマリアとの美しい再会に目を奪われて、うっかりしていた。「コケコッコー」と仲間からあざけられていたペテロ。イエスは何をおいても、屈辱のきわみにいるペテロを励まさなければならなかった。ここに、イエスというお方の大いなる優しさを感じるのである。イエスというお方はそういうお方なのである。と今更ながら気づかされた。傷つき、悲しめる人のための「イエスの臨在」は、はかり知れない勇気を私たちに与えてくれる。

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昨年末、兄は連れ合いを亡くしたしたが、今度は自分が白内障で、目がよく見えなくなってきたとの、連絡があった。施設を出てこちらへ来るように勧めたが腰が重い。青森の医者たちは、かなり不親切なようだ。手術をすればいいのだが、面倒がってしてくれない。あいつは案外要領が悪いところがある。医者とサルはおだてれば踊りだすのに・・・・・バラの一つも持って行け!!。

 

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