イミタチオ・クリスティ

村の小さな教会

4月13日(火):束縛と恵み

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【イエスはサマリヤを通過しなければならなかった】ヨハネ:4章4節。

エスは「ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなっかった」ゆだっやからガリラヤに行くには、必ずしもサマリヤを通らねばならないこともなかった。何かの事情でそうなったのであろう。しかし、イエスがえらんで行ったのではなく、通過しなければならなかったと書いてあるように、しいられるということがイエスにもあった。私たちの人生にも、特に信仰生活においては、しいられることもあると思う。・・・・・・・・・・

無教会の人は、同じ信仰を持った人たちの群れであるが、その中で信仰が合わなければ、さっさと他のところへ行ってしまう。『無教会の精神の探求』(高橋三郎著)の中に、それが無教会のよさである。それに対して、教会は一度教会員になれば、その牧師がどうあろうと、選択の自由がなく、しぶしぶながらもついて行かなければならない。また、牧師は招聘されたという面もあるので、自分のおもったことを言えなくて、信仰が非常に妥協的ななり易い。教会にはそうした欠点もある、という風に書いてあった。

しかし、無教会の人たちは、自分たちで聖書研究会を持ち、そこに集まってくるのだから、強いられることもない。自分の気の向いたときに、気にいった先生の話を聞くというところに、非常に自己中心的な信仰があり、そこには人の為に、あるいは敵のために、また自分と意見を異にする人のためにも、自分が退いて共に神をあがめるというようなことがない。この点はなんといっても無教会の弱さであると思う。。。。。続く。今日は昨年12月に亡くなった義姉の納骨式で、青森へ行く。時間がないので、改めて続きを書く。

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昨年の葬儀の写真

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