ヘレン・ケラーの生涯について書くつもりであったが、見通しが甘かった。大方は私たちの時代に、学校で教わったことであるし、誰でも知っている事なので、余計にまとめ上げてブログで紹介するには、少し荷が重すぎた。私の力の及ぶところでないので。
『幻冬舎 GOLG ONLINE』
・・2021年9月28日付けの文章を引用させていただくことにする・・
『ヘレン・ケラーと日本』
ヘレンケラーは、昭和12年(1937年)、昭和23年(1948年)、昭和32年(1955年)の3回来日しています。3度に及ぶ来日により、彼女鵜の名前は日本でも広く知られるようになりました。2度目の来日は、丁度日本が敗戦後の間もない頃で、日本中がすさんだ状況だったこともあり、各地で熱狂的な歓迎を受けることになります。・・・・
こうして、彼女が日本各地を回ったことをきっかけとして、2年後に身体障害福祉法が制定されました。そしてこの後、東京ヘレンケラー協会が創設されます。ヘレンンケラーは同協会の名誉総裁となり、3度めの来日の際は、ヘレンケラー学院の講堂で講演を行い、東京ヘレンケラー協会の発展を見届けました。・・・・・
ヘレンケラーとサリバンは、常に二人三脚で歩んできましたが、残念ながらヘレンの初来日の直前に亡くなってしまいます。ヘレンを50年に渡って支え続けた偉大な生涯でした。一方ヘレンは昭和43年(1968年)、88歳の誕生日直前に亡くなり、首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に眠っています。・・・・・・・・
ヘレンは、恩師とも言うべきサリバンが亡くなってから、30年もの間たった一人で、障碍者の自立と幸福のために戦い抜きました。サリバンなくしてヘレンはなく、ヘレンなくして、今日のような障碍者の社会進出は、もっとずっと遅れていたかもしれません。・・・・・・・
今日の午後、同サイトにあった、ヘレンが言葉を覚えるまでの、映画を見せてもらった。1時間45分の長丁場であったけれど。久しぶりに感動の涙を流した。