・・いつくしみの時・・(羽鳥明師)しかし、主よ。・・・
あなたは立ち上がり、
シオンをあわれんでくださいます。
今やいつくしみの時です。
定めの時がきたからです。(102:12・13)
心が青菜のようにしおれ、廃墟のふくろう、屋根の上の一人ぽっちの鳥の
ように寂しい時、この詩人は悲しみに沈んだり、破れかぶれなったりせず、「しかし、主よ」と、しっかり顔を神に向けて高く上げました。彼は、今こそ神の恵みの時、定めの時と知っていたからです。・・・・
聖書の中に、三つの定められて時のことが記されています。第一に、過去の事実として定められた時があります。それは、私たちが罪人だった時、私たちのそむきの罪にもかかわらず、限りない愛のゆえに、神が人となり、キリストとなって十字架の上で血を流され、私たちを救い出してくださった、あの十字架と復活の時です。神は定められた時に、恵みにより、私たちの救いを成し遂げてくださっているのです。・・・・・・
第二は、神はすべてにピリオドを打ち、すべての敵、死も悪魔も滅ぼし、
すべての矛盾に解決を与え、神に贖われた人々に最終的な勝利の冠を下さる時です。しかし、第三に、この詩人が歌いあげていいるのは、「今」という恵みの時、定め時です。既に成就した定めの時と、やがて来るべき終わりの時の間に、「今」といういつくしみの時、定めの時が、私たちに与えられているのです。今こそ、恵みの時、救いの日なのです。・・・・
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以前は、朝毎に榎本保朗師の「旧約一日一章」を読んでいたが、もう何十年も読んでいたので、最近、羽鳥明師の「詩篇」を読むことにした。・・
この書は日付順に書かれているので、今日載せたものは当月22日に読んだ。それで、表題の「しかし、主よ・・・」パートⅡとした、パートⅠは8月21日に書いてある。大意としては、概ね似通っているが、やはり微妙な点で、着目点が違う。同じ本を読んでも、誰もが同じような感想、感じ方をするわけではないことが良くわかる。聖書が神からの語りかけである以上、神の霊が一人一人の心に語りかけるからであろう思う。誰も、人の信仰の方向を定めてはならない。もしかして、神がその人にそう語りかけておられるなら、それを否定するのは、神に逆らうことになる。・・・
「もしかすると、あなた方は神に敵対する者になってしまう・・・」と言った高名な律法学者ガマリエルの言葉は貴重である(使徒5章39節)
今日はちえこの果物とお菓子が底をついたらしい。午前中作業をして午後から大館に出かけた。帰りに正男じっちゃんの所へ寄ってこようかと思っていたのだが、うっかり高速に乗ってしまった。そのうち、インスタント味噌汁を持って出かける。・・・